WHITE HOLE

こころは世界のすべてを生むところ

自分を縛る鎖を解き始める

2005年06月24日(Fri) 10:54:04

娘と目が合うか試しているうちに、自分も人と目を合わせないことに気付いた。どうしてかは分からない。それが当たり前だと思う。

夫を見ていると、自分の行動は見えにくいのだな、と思う。夫は、自分も子どもに対して一貫した態度を取ることが出来ないわりに、私を責める。夫は、自分がいれたジュースを子どもが飲まないと怒るわりに、私が食事を残されて怒ることを非難する。私はどうなのか、と考えると、やはり夫を責めるわりに自分も同じようなことをしていると思う。

昨日、子どもを連れて児童館に行った。私は、児童館の飲食用のテーブルを長時間占領して井戸端会議をしている母親たちに以前から腹を立てていた。私は、自分が使いたいときに、「場所を空けてもらえますか?」と言えない。昨日もそうだった。そして、仕方がないので、床にレジャーシートを広げて、落ち着き無く動き回る息子に苦労しながら食事をした。
よく考えたら、私はこのような小さな怒りをしょっちゅう感じているのに、すぐに忘れて、怒りなんて初めから無かったことにしているのだと思う。
どうして「場所を空けてくれ」と言えないのかも考えてみた。案外私は、自分が嫌われることを無駄に警戒しているのかもしれない。多分、自分が逆の立場で「場所を空けてくれ」と言われても、そんなに怒らないと思う。
私は自分が他人の顔色を伺って生きているので、他人にもそれを求めているのではないか、とも思う。井戸端会議をしている母親たちは、私が何も言っていないのだから、私が場所を空けて欲しいと思っていることなんて、分かるわけないと思う。
こうして私は、怒る原因を自分で増やしているのかもしれない。

先日、夕食と入浴の後、娘が散歩に行きたいと言ったので、夜の10時を過ぎていたけれど、散歩に行った。夫と息子もついてきた。10分ぐらい歩いてスーパーの駐車場に着いて、そこで子どもが遊び始めたとき、それまで何も言わなかった夫が「こんな時間に散歩するの、いい加減にやめないか。」と急に怒り出した。
私は、とてもびっくりした。
私は、「文句を言われたことしか分からない」ということ、「何も意見交換や感情の交流がないところに、急に地雷のように怒りを持ち込まれるのはいやだ」ということ、「私は、珍しく機嫌の良い娘と、気分よく歩いていた」ということ、「苦痛から解放される貴重な時間を妨害されて腹が立った」ということを夫に訴えた。
次の日、1日中、ため息以外の会話をしないで、態度で不快を表現し続ける夫に腹が立ったままだった。
そういえば、私も、こんなふうに「地雷のように」怒るということを、すっかり忘れていた。自分の行動は見えにくい。
子どもを巻き込んで過食した。今まで、子どもに妨害されたくないし、子どもを太らせたくなかったので、なるべく子どもの昼寝中に隠れて過食していた。
その日、子どもは、幸せそうにお菓子を食べ、「私とお菓子を食べた」ことを喜び、寝る前にもそのことを話していた。次にお菓子を与えたときも、私も一緒に食べることを求めた。私は、普段よりマシな表情をしていたのかもしれないな、と思った。

子どもを連れてスーパーに買い物に行った。娘は小さなドーナツがいくつか袋に入ったものを欲しがり、大事そうに持って歩いていた。それを息子が触ろうとしたため、娘は持っていたドーナツの袋で息子をたたき始め、袋が破れてドーナツが床に散らばった。娘は床に散らばったドーナツを食べたがって泣きわめき、私はとても混乱した。混乱しながら、それを拾い集めてお金を払っても、どうせ捨てるしかない、と思い、誰も見ていないことを確認して、何事もなかったように、娘の手を引いて、その場を離れて、普通に店を出た。
そういえば、私は普段から、こんな生き方をしている気がする。「価値がなくなった」と感じたら、自分や他人を、床に散らばったドーナツのように簡単に見捨て、無責任に放棄している気がする。そうやって自分を守る。
その日の夜、娘のまばたきにチックが出ていることに気付いた。

「自分はどこもおかしくない」と言い聞かせて、自分のおかしい所を押さえつけ、「幸せの顔を貼り付けた機械」のように生きる努力をしていたほうがラクだと思う。ときどき、また、そうしてしまおうか、と考える。でも、それは、自分を無視し続け、自分を見捨て続けるということだと思う。

そういえば、ここ3年、テレビを見ない。テレビをつけると目に入ってくる「テンションの高い人たち」がとてもうっとうしい。
そういえば、拒食期の父もうっとうしい。自分と違ってテンションの低い私に「死んだフリ?」などと、大きな声で独り言を吐き捨てる父は頭がおかしい。腹を立てながらも、面と向かって私に文句を言えない父を、鼻で笑ってしまう。

結婚したころ、私はしきりに夫の顔色を伺い、どんな自分を作ったら喜ばれるのか、いつも考えていた。そうするのが当然だと思っていた。でも、夫からのメッセージは何もなく、どんな自分も作りようの無い状態になって、とても混乱した。「どんな自分なら存在してよいのか分からない」のだから、本当に混乱する。夫は別に悪くないと思う。でも、それも、寂しいと感じた理由のひとつだと思う。私は、結婚式以外、幸せな顔の夫をあまりみたことがない。

夫は「私を束縛するつもりがない」ことを強調する。私が夫に「無視しすぎだ」と訴えると、「それでは束縛されたいのか」という見当違いな答えが返ってくる。そうではない、ということが、どうしても伝わらない。私は、束縛も無視の一種だと思う。私は尊重されたいし、むしろ解放されたい、ということが、どうしても伝わらない。

子ども対してまで「おりこうちゃん」でいたら身が持たない。「良妻賢母」な自分を作り続けようとするから、ときどき「悪妻愚母」になってしまう。どちらも自分で作った自分だけど、どちらもバカバカしい。初めから私には「良妻賢母」を作りつづける能力なんてない。普通そうだと思う。
子どもが「この世は感情を出してはいけないところなんだ」というくだらないことを覚えてしまうのは困る。「ママはあなたが悪いことをしたら怒るし、怒らない努力をしていても自分の機嫌が悪くて怒ることもあるけれど、それであなたのことを嫌いになることはないのですよ。ママも笑ったり怒ったりするけれど、あなたが大好きなのは変わらないのですよ。そうやって一緒にいることもできるのですよ。だから心配しなくていいのですよ。」と伝えて行きたいと思う。それはとても難しいと思う。

感情は、出し方が野蛮でなければ出してもよいと思う。私はその方法がよく分からないけれど、泣いたり怒ったり笑ったりすることが悪いことではないと思うだけで、多少、解放されると思う。
それにしても、どうして怒りばかり出てくるのだろう。
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